テクノロジーは道具ではない

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こんにちは、こんばんは。
1年オールラウンダーの北村裕次郎と申します。
ブログには好きなことを掲載してよいとのことだったので、持論を。

持論

近代以降、科学技術の発展は凄まじく、人類の生活は著しく豊かなものになった。しかし、科学技術の展開には、否応なしに人類を次の段階に進めてしまう恐ろしさがあると私は考える。

例えば、マイクロプラスチックによる海洋汚染が問題になると、バイオマスプラスチックの開発が急がれ、プラスチックを使うまいとして森林伐採をすれば、地球温暖化が危ぶまれる。
このようにテクノロジー(科学技術)によって引き起こされた環境破壊が、それを取り戻すために、新たなテクノロジーを要請するといった事例は枚挙にいとまがない。

医療技術の発展は、例えば不妊を技術的克服の課題とし、人工授精という技術を開発してきた。その一つ体外受精の場合、受精卵着床の確率を上げるために、排卵誘発剤を用い複数の卵子を採取し受精させたうえで子宮内に戻す、といったことが行われてきたが、これによって多胎妊娠の可能性も高くなった。多胎妊娠は、母体への身体的な影響や出産後の経済的なことなど、さまざまな負担を患者に強いるため、現在は子宮内に戻す受精卵の数を制限するようになっている。だが、この制限によっても胎児のリスクは、自然妊娠の約二倍と、なお完全にコントロールできたわけではないし、複数の受精卵からの選択、また選択されなかった「もの」の「処理」などの問題は、依然として残る。

いずれにせよ、こうした問題に関わる是非の判断は、技術そのものによって解決できる次元には属していない。延命治療なんかもその類だ。「できる」ということが、そのまま「すべき」にならないのは、核爆弾の技術を持つことが、その使用を是認することにならないのと一般である。テクノロジーとはhow-toの知識の集合体である。それは、結果として出てくるものが望ましいかどうかに関する知識、それを統御する目的に関する知識ではないし、またそれとは無縁でなければならない。その限りのところでは、テクノロジーは、ニュートラルな道具だと、いえなくもない。しかしながら、「すべきこと」から離れていることがテクノロジーを単なる道具としてニュートラルに留まりえない理由でもある。
新型出生前診断が導入されてから10年の間、“陽性”が確定した人のうち中絶に踏み切ったのは約9割だという。昭和以前にはなかった「命の選別」が行われているのである。

テクノロジーが今まで不可能だったことを可能にするとき、私たちには新しい可能性を手にした喜びがある。しかし、同時に、果たしてその可能性の道を選択すべきかどうかとういう、不可能だった時代には存在しなかった新たな問いも生じる。テクノロジーは中立な顔をしながら、私たちの価値観を揺さぶり、倫理的な態度決定を迫るのだ。
この場で判断の是非を問題にしたいわけではもちろんなく、選択制妊娠中絶の例をとってしても明確な決定基準があるとは思えない。むしろ、基礎づけるものが欠けていて、そういう意味で判断は虚構的なものでしかないと考える。

例えば、化石燃料の消費を将来世代への責任によって制限するという論理は、理解「は」できるが、現在存在せず、返答の相手がいないという点で虚構的であると言わざるを得ない。そもそも人間は生物種としての強大な存続のエゴを宿しており、この世界に自分なりの秩序をあたえ、世界に意味を与えることを求めた。しかし、それは人間の都合であり、人間の価値観である。つまり生物種一般とすれば、世界とは無関係の虚構である。

人間が世界に秩序と意味を求めたとき、まず生まれたのが「神」である。人智を超えた自然を前にして、人間を超えた「神」を生み出したのは当然ともいえるだろう。そこから「神話」に基づく世界観、価値観が生まれ、人間はそれに従ってきたのだ。しかし、近代以降、自然を超えたテクノロジーの出現によって、自然に即した「神話」は崩壊した。そして、今まで判断の基準となっていたそれにとってかわり、虚構が生まれた。判断を基礎づけるものがないにもかかわらず、無意識にテクノロジーを信奉しているのだ。かくして、自分がとらわれている世界観、価値観が常識となり疑われることなく、新たな問題の判断を迫られる状況に私たちは追いやられているのだ。

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